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壱岐の歴史

原始・古代

壱岐島の誕生
現在の壱岐は、本島と5つの有人島、23の無人島から出来ています。
壱岐の島々は、幾度にも渡る地殻変動を繰り返し、現在の形になりました。
今から数万年前、日本全土にわたって、火山が活発に活動し始めましたが、この火山活動の終わりごろ、日本列島は大陸から切り離され、壱岐も、四方を海に囲まれた島となったと考えられています。

先土器時代
いつごろから日本に人間があらわれたのか、はっきりとわかっていませんが、壱岐でもその昔、人々が石器を使って生活していたことを示す遺物がたくさん残されています。
ナイフ形石器、台形の石器、削り具など、壱岐の各地で発掘されています。

縄文時代
現在の壱岐は、本島と5つの有人島、23の約1万2千年前から、2千数百万年前まで続いた縄文時代では、人々は、粘土をこねて焼いた土器を使い始めるようになりました。
土器によって、ものを煮て食べたり、蓄えておくことが出来るようになりました。壱岐の縄文遺跡は、全部で24箇所発見されています。

魏志倭人伝
魏志倭人伝のなかに、壱岐に関する記述があります。
「一大国に至る。官はまた卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木・そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす」
ここで、壱岐の様子は「広さ三百里平方、竹林・叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、南や北と交易して暮らしている」と記されています。

古墳
壱岐には数多くの古墳が残されており、その数は、長崎内全体の半数以上にあたります。これだけ多くの古墳を造ることは、壱岐の豪族たちの力だけでは難しかったはずなので、当時の大和政権が強力な援助をしたのだと考えられています。

壱岐を襲う賊
壱岐は、新羅や奄美の賊などによって、何度も襲われ、多くの被害を受けました。9世紀に入ってからも、新羅人や、正体不明の海賊らが、壱岐、対馬や北九州沿岸へ侵入しました。このころの九州北部は、大変治安が悪く、壱岐や対馬は、国境の島として、過酷な運命に耐え続けていました。

中世

蒙古襲来
モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンは日本に服属を求めて、たびたび使者を送ってきました。しかし、日本の朝廷と幕府は、これを拒否して返書を出しませんでした。これに怒ったフビライは、日本征服を決意します。

蒙古襲来
1274年、数万の元の大軍は対馬に上陸し、さんざん暴れまわったあと、14日に壱岐を襲いました。壱岐を取り仕切っていた守護代の平景陸は、力の限り防戦をつとめますが、やがて敗戦を悟り自害しました。残った家来たちもすべて戦死しました。
壱岐を襲った元軍は、その後博多湾に進入し、毒矢や、「てつはう」という火薬を使った音のする武器を使い、一騎打ちを基本としていた日本軍相手に、一方的に戦いをすすめたと言われています。
ところが、夜になると、元軍は軍船に引き上げ、21日の朝になると、昨日まで博多湾を埋め尽くしていた元軍の大船隊が、姿を消していました。これは、20日夜半に起こった暴風雨、いわゆる「神風」が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとされています。

蒙古襲来
フビライは、再び、1275年と1279年に、日本の服従を求めて使者を出しましたが、幕府はこれらの使者を処刑しました。フビライは怒り、二度目の日本遠征を決意しました。元の大軍は、文永の役と同様に。対馬、壱岐を皮切りに、日本を攻め立てました。
しかし、またも暴風雨が北九州をおそい、元の大船団の多くの船を破壊し、嵐の去った翌日は、元軍の船の残骸と無数の死体が海をうめつくしたと言われています。
こうして、元軍の二度目の日本遠征も失敗に終わりましたが、壱岐をはじめ、日本側の受けた損害は、決して少ないものではありませんでした。

近世

文禄の役・慶長の役
1582年の本能寺の変で織田信長が倒れた後、日本の支配者となった豊臣秀吉は、次なる目標として明(中国)の征服を決意し、一番隊から九番隊まで総勢15万8800人からなる朝鮮出兵の軍勢を編成しました。壱岐の武士や水夫たちは、一番隊の松浦軍に入りました。はじめのうちは、日本軍の快調な進撃が目立ちましたが、李惷臣(イ・スンシン)の率いる水軍が日本水軍に大打撃を与え、補給路が十分でなくなり、日本軍の兵糧はしだいに減り、弾丸の補給がつかなくなりました。そのうえ陸上でも各地で決起した義兵がゲリラ戦を展開し、損害も多くなったため、日本軍は引き上げることに決めました。1597年、秀吉は、再度、約14万の大軍で朝鮮へ攻め込みましたが、日本軍は、明・朝鮮軍の激しい抵抗にあい、また、寒さや兵糧不足などで苦戦しました、そして、翌年8月、秀吉の死によって、同年12月までには、日本軍の全てが、対馬・壱岐を経て、全軍撤退しました。

近代・現代

明治維新
明治2年(1869年)2月、平戸藩は職制を改め、壱岐では、城代が督撫使(とくぶし)、郡代が民政・群政判事、勝本押が按撫使(あんぶし)、遠見番頭が煇火師(ほうかし)、代官が邑宰(ゆうさい)、庄屋が里長(りちょう)と改称されました。同年の6月には、藩主の松浦詮が版籍奉還して、平戸藩知事に任命されています。
明治4年7月、平戸藩は廃止となり、平戸県となりました。

明治維新
明治4年11月、長崎・島原・福江・大村、それに平戸の各県は統合されて、長崎県となりました。
さらに、明治5年1月には、北高来郡・南高来郡・彼杵郡が、8月には厳原県(つしま)も編入し、今日の長崎県ができあがりました。
壱岐は、明治22年の町村制度施行当初は、壱岐郡(5村)と石田郡(7村)となりました。
そして、昭和45年までに、郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の4カ町となりました。そして、平成16年3月1日、島内の4つの町が合併し、長崎県で10番目の市として、壱岐市は誕生したのです。このように、壱岐は豊かな歴史を持ち、その足跡は今も壱岐の各地に残されています。そしてそれは、壱岐が「歴史の島」と呼ばれる由縁となっています。

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